瑛介はレストランを出たとき、顔を曇らせていた。彼は千恵を利用して、弥生を引き出せると思っていたが、どうやらその目論見は外れたようだ。あの目を逸らす仕草を見る限り、自分の言葉すら彼女に伝えていないのだろう。瑛介はその場でスマホを取り出し、電話をかけた。「ちょっと、ある人を調べてくれないか」一方、千恵がようやく我に返り、彼を追いかけようとしたときには、瑛介の姿はすでに消えていた。仕方なく彼女はスマホを取り出し、瑛介に電話をかけた。電話はしばらく鳴った後、ようやく繋がった。「宮崎さん、さっきは一体どうしたんですか?友人が来なかったけど、本当にごめんなさい。騙すつもりはなかったんです。ただ、昨日の夜、彼女は彼氏と一緒に引っ越してしまったんです。友人の彼氏の前では、あなたのことを話しづらくて......」彼女がまだ言い終わらないうちに、電話の向こうから突然、鋭く耳障りな急ブレーキ音が響いた。それを聞いた千恵は驚き、声を張り上げた。「宮崎さん、大丈夫ですか?」しばらく沈黙が続いた後、冷たく怒りに満ちた声が電話越しに返ってきた。「彼氏?」千恵は反射的に答えた。「そ、そうです、彼氏......」プツン——電話の切断音が鳴り、千恵はようやく状況を理解し始めた。彼女はスマホを持ったまま、ぼんやりと立ち尽くした。瑛介の行動と言葉、それにその反応を思い返して、やっと最近あったことを理解したようになった。「ハックション!」弥生がくしゃみをすると、隣にいた弘次はすぐさまハンカチを差し出した。「大丈夫?」彼女は軽く鼻をすすり、弘次のハンカチを受け取ることなく、そのまま歩き続けた。賃貸会社のスタッフが先を歩きながら説明を続けた。「次はこちらの物件をご覧ください。南向きの大きな窓からは昼間には川の景色、夜には夜景が楽しめます。そして、3LDKに書斎付きです。この条件に最も合う物件ですが。ただし......」スタッフは一瞬言葉を詰まらせたが、そのまま言葉を飲み込んだ。弥生は部屋に足を踏み入れ、一通り見回した後、とても満足そうに頷いた。立地も良く、学校や会社から近い点も気に入ったようだ。「家賃はいくらですか?」「そうですね、この物件に入居するつもりですか?」スタッフは驚きの表情を浮
離婚後も元妻のことを気にかける男性なんて、少ないものだ。隣で話を聞いていた弘次は、この会話を耳にして少し違和感を覚えた。「ああ、そういえば君とこの大家さん、ちょっとした縁があるみたいだよ」「えっ?」弥生は目を丸くし、弘次の言葉に少し驚いた。「そうだね。私がこの家を借りられるのもその縁のおかげですかね?」「もしかしたら、本当に縁があれば借りられるかもしれませんよ。霧島さん、この大家さんの苗字も『霧島』なんです」「霧島?」「そうなんです。それに、若くて美人だそうですよ」弥生はその話を聞いて少し違和感を覚えたが、特に深く考えることはなかった。一行はエレベーターで下に降り、建物の出口に向かったところで、スーツ姿の中年男性と鉢合わせた。おそらくスタッフの上司らしい。その男性はスタッフを見るなり顔を曇らせ、怒りを露わにした。「おい、お前またお客さんをこのエリアに連れてきたのか?この間から何度言ったら分かるんだ、ここは貸し出せないって!こんなところ見せて、借り手が見つからなくて苦労するのは俺なんだぞ、俺を殺す気か?」中年男性はスタッフを叱りつけた後、弥生と弘次に振り返り、頭を下げた。「いや、失礼しました。うちの社員がどうもこのエリアの風水に惚れ込んでしまいましてね。それでついお客様をここにお連れしたんですが、ここは貸し出し不可ということはもうお聞きになってますよね?」弥生は微笑んで頷いた。「はい、伺っています」「本当に申し訳ません。ただお客さんと大家さんは同じ苗字で何かご縁があるかもしれないと思いまして、そこで、ご案内いたしました」中年男性は目を丸くしながら、弥生を上から下まで眺めた。「なるほど、帰国されてこれからのご活躍ですね。それなら東南の方にある別の物件をお見せしてはどうです?」「そうですね、あの物件を忘れてしまいました。次はこちらをご案内しますね」「ありがとうございます」次に案内された物件は、先ほどの物件ほどではなかったものの、内装の雰囲気が気に入った弥生は少し考えた後、納得した様子で頷いた。「家賃は?」「家主さんの希望で、敷金1ヶ月、前払い6ヶ月分となります。ご都合いかがでしょうか?」「いいと思いますが。ただ、最近少し忙しいので、引っ越しは少し後になりそうです」「分か
「っえ?」弥生は自分の耳を疑った。「霧島さま?」スタッフの恭しい態度に彼女は困惑し、先ほどの会話が脳裏をよぎる。あのエリアは「大物」が元妻に譲ったものだという話......彼女の目つきが微妙に変わった。スタッフが言っていた『大物』と『元妻』、もしかして私と瑛介のこと?苗字が霧島で、海外に行って、しかも連絡がつかない......こんなにも一致することがあるのか?さらに、スタッフが彼女の身分証明書を見るや「さま」と呼ぶようになったことにも疑問を抱いた。信じがたい気持ちを抱えながらも、弥生はスタッフに真剣に言った。「さっき言っていた、あの物件のオーナーの連絡先、見せてもらえますか?」その言葉を聞き、スタッフの目が困惑の色を帯びた。「ええと......あの物件のオーナーって、あなたじゃないんですか?」そう言いながらも、スタッフは従順に電話番号を探して彼女に手渡した。弥生がその番号を確認すると、それは以前の彼女自身の電話番号だった。そして、物件の名義もすべて「霧島弥生」という名前になっていた。「全部私の......?」目の前の事実を目にして、弥生は呆然とその場に立ち尽くした。しばらくしてようやく冷静さを取り戻した。当時、彼女は何も受け取らないと決めていた。結婚証明書を取得するだけで、物質的なものは一切求めなかった。霧島家が落ちた際、瑛介が手を差し伸べてくれたことで、彼女の父に対する陰謀を防ぎ、人々も彼女に敬意を払った。彼女はそれを彼への恩返しとし、それ以上は望まなかった。だが、彼はこんなにも多くの財産を彼女に譲渡していたとは。「一体、いつの間に?」弥生はその疑問を抱き、スタッフに尋ねた。「この物件が私の名義になったのは、いつ頃のことですか?」この質問は、スタッフの知っていることの範囲を超えていた。「申し訳ありませんが、それは分かりませんね。私たちはただ、自分の上司が誰かを知っている程度です。そこで、霧島さまの顔も知らなかったのです」そう答えながら、スタッフはふと何かに気づいた様子で、目の前の美しく端正な弥生と、その後ろに立つメガネをかけた温和な雰囲気の男性を交互に見つめた。心の中で、彼は一つの物語を描き始めた。だがその想像が深まる前に、弘次が口を開いた。「弥生、
弥生は答えた。「私でも家賃を取るの?」「うん、ちょっとでも収入が増えたらいいと思ってさ」収入...... 弘次がこの程度のお金を必要としているとは......「いくら?もし激安で貸してくれるつもりなら、遠慮しておくわ」「そんなつもりじゃないよ。あそこの地価は高いし、購入にもかなりの費用がかかったんだから、もし借りたいなら月に20万円もらうけど」家賃を聞いた弥生は少し驚いた。高いと感じたわけではなく、好立地なら月20万円は普通だが、本当に弘次が言葉通りに家賃を請求するとは思わなかったのだ。だが、それによって弥生の気持ちはかえって楽になった。「それじゃ、お願い」彼女が目喜んでいる様子を見て、弘次の眼の奥にほんのり無力感が浮かんだ。家賃を取るのはただの手口だ。そうしなければ彼女を引き留めることも難しいのだから。引っ越すことが決まると、弘次はその日の夜に友作を呼んで手伝わせた。もっとも、引っ越しと言っても持ち物は少ない。早川に来たばかりの彼女はほとんど荷物を持っていなかったのだ。ただし、二人の子供は初日に学校から学用品や制服をたくさん持ち帰ってきた。弥生はそれらをスーツケースに詰め、ホテルを退去する前にフロントで手続きをした。フロントスタッフは、彼女が数日しか滞在していないにもかかわらず、依然として丁寧な態度で対応した。「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」弥生と弘次がホテルを後にして間もなく、青いベントレーの車がホテル前に停まった。車から降りたのは、背が高く痩せた一人の男だ。洗練されたスーツ姿の男は、俊美な顔を持っていたが、無表情だった。後ろには、カバンを持った慌ただしいもう一人の男が彼の後ろを追っていた。「社長、もう少しゆっくりしていただけませんか」瑛介は顔を冷たく引き締めたまま、フロントへまっすぐ向かった。このホテルのエレベーターはカードキーが必要なため、宿泊しなければ階上へ上がれない様になっている。フロントに到着すると、スタッフが声を掛けた。「いらっしゃいませ」瑛介はスタッフの挨拶を聞いても、黙り込んでいた。代わりに健司が前に進み出て、明るく尋ねた。「すみません、お尋ねしたい方がいまして」「お探しの方ですか?」「はい。霧島さ
表情を変えず冷静だった瑛介がその言葉を聞くと、目を細めた。「ここにいないのか?それなら、彼女はどこへ行った?」「それはこちらでは分かりかねます。お客様での行き先についてお聞きすることはありませんから」健司も頷いた。「まあ、それは確かにそうですね」「ただ......」彼は疑念を抱くように目を細め、フロントスタッフをじっと見つめた。「失礼だが、本当に知らないのか、それとも隠しているのか?」「あのう、繰り返し申し上げますが、お探しのお客様はチェックアウトされまして......そうだ、ちょうど少し前です」その答えを聞いた瞬間、瑛介の表情はさらに険しくなった。彼が来ると、彼女は出て行った。前回も、あの女性の家で同じことがあった。彼が訪ねた時、彼女はちょうど外出していた。今回も彼が来ると、彼女は出て行ったのだ。偶然か、それとも何か意図的なものなのか?そのことを考えた瑛介は、鋭い目つきでスタッフに尋ねた。「一人で出たのか?」フロントスタッフたちは一瞬戸惑い、互いに顔を見合わせた後、小さな声で答えた。「いえ......一人ではありませんでしたが」その言葉を聞いた瑛介は、堪えきれず冷笑を漏らした。彼はそれ以上聞く気も失せたようで、その場を離れた。健司は急いで後を追いながら言った。「なんてこのタイミングで出て行ったんでしょう。社長、行き先をお調べしますか?」その言葉を口にしながら、健司はいきなり瑛介にぶつかってしまった。彼は驚いて後退りし、慌ててお詫びした。「あっ、申し訳ありません、大丈夫ですか?」「偶然?」瑛介は振り返して、冷たく彼を睨みつけた。その目はまるで氷の刃のように鋭く冷たい。「これが偶然に見えるのか?」健司は口を閉ざして、おそるおそる尋ねた。「偶然ではないとすれば、僕たちを意図的に避けている......ということでしょうか?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の表情はさらに険しいものとなった。健司は肩をすくめながら続けた。「それで、探しに行かれますか?」「探す?」瑛介は心の中で冷笑した。他の男と一緒にいる彼女を見に行くのか?彼は無言で踵を返し、歩き去った。健司は彼の意図が全く読めないまま、急いで後を追いかけた。「社長、もう探さないんですか?」
弘次が帰った後、弥生は子供たちを寝室に送って、暖房をつけてから、ベッドを整えた。その後、自分はノートパソコンを持って書斎に入った。弘次が用意してくれたこの家の書斎は、気配りがとても行き届いていた。広々としたスペースに、大きな窓があり、壁一面には天井まで届く本棚が備え付けられている。さらに、小さなはしごもついていた。この環境は、弥生の好みにぴったりだった。しかし、今はその美しい書斎を楽しむ余裕はなく、午後の出来事が彼女の頭からずっと離れなかった。ノートパソコンを開き、彼女は情報収集を始めた。もし、あの物件が本当に自分の名義であるなら、自分が「彼から何も受け取らなかった」と信じていたこれまでの考えは一体何だったのか。彼女はそれを知りたい気持ちでいっぱいだった。ネットで調べ始めたものの、不動産業者の言うとおり、詳細な情報はネット上では入手できない。もし本当に自分名義の財産があるのなら、その移転日や詳細を知るには、専門家の助けが必要だと悟った。そこで、彼女は父親の弁護士へ電話をかけた。「霧島さん?」電話を受けた弁護士の守口信男は少し驚いた様子だった。「お父様に何か問題でもあるのでしょうか?」「いいえ、父とは関係ありませんが。国内で信頼できる弁護士を紹介していただけますか?」「それなら、国内に後輩がいますが、最近少し忙しそうです。お急ぎですか?」「いええ、そこまでは」「それなら、紹介できると思います。先に彼に連絡してみますね」「ありがとうございます」電話を切った後も、弥生は引き続き資料を調べていた。5分ほど経った頃、スマホが振動した。「もしもし、霧島さんですか?私は守口さんの後輩で、高森幸太と申します。よろしくお願いします」「はい、霧島です。どうぞよろしくお願いします」電話越しに、彼の周囲で会話やグラスが触れ合う音が聞こえてきた。忙しい中で対応していることを察した弥生が話を切り上げようとしたところ、彼が言った。「あのう、ラインは使いますか?そちらで要件をお聞きします。先輩から聞いたお話で、何をお調べになりたいかは大体分かりましたが。もし私を信頼していただけるなら、調査を代行して、結果をお伝えします。報酬については後ほど見積もりをお送りしますが、それでよろしいですか?」「はい、お願いします」その対応に、
弥生は自分の個人情報を幸太に送った後、幸太からはしばらく経っても返信がなく、料金の見積もりも来なかった。時間を確認し、先ほど電話で聞いた状況を思い出して、彼が今日は忙しいのだろうと推測した。彼女自身が調べた資料もほぼ限界に達しており、これ以上調べても新たな情報は得られないだろうと考え、最終的にノートパソコンを閉じてシャワーを浴びに立ち上がった。そのため、彼女がシャワーを浴びている間に幸太が電話をかけてきたことには気づかなかった。シャワーを終えて戻ると、幸太が彼女の求めていた資料をすでに送ってきたのを発見した。資料はまだ開いていなかったが、目に入った目次だけでも感心せざるを得なかった。さすがお父さんの弁護士の紹介だと、そのプロの仕事ぶりに感嘆した。彼女は資料を開く前に、幸太にお礼の返信を送り、料金の見積もりも依頼した。その後、資料を開き始めた。事前にある程度心の準備はしていたが、実際に自分名義の財産リストを目にしたとき、その膨大な量と広い範囲に彼女は驚愕せざるを得なかった。南市や早川だけでなく、他のいくつかの都市にも不動産を所有しており、それに普通の住宅ではなかった。いくつかの不動産は以前から管理が行き届いており、ここ数年の収益も彼女の名義だった。ただし、彼女が今日見に行った地域だけは数年前に完成したばかりで、所有者である彼女に連絡がつかず、管理も賃貸もされていない状態だった。これらの不動産に加え、彼女は宮崎グループの株式まで所有していることも明らかになった。その事実を目の当たりにして、弥生は複雑な気持ちに陥り、唇を噛み締めた。胸の内では感情が渦巻いていた。自分が知らないうちに、こんなにも多くのものが与えられていたなんて、どういうことなの?奈々もこれを知っているの?彼女が同意したの?それとも......弥生は耐えきれず、ノートパソコンを締めて、すぐに幸太に電話をかけた。「もしもし、高森さん、急にすみませんね。この資料の正確性について確認したいのですが、誤解しないようにお願いしたいですが......」幸太はすぐに彼女の意図を察知した。「そうですね、心中お察しします。おそらく、あまりの額に驚いて信じられないと思われたのでしょう?」この反応の早さと的確さに、彼女は感心せざるを得なかった。「実を言いますと
弥生は一瞬何も言えなくなった。とはいえ、考えてみると、それは普通のことだ。特にこれ以上言えることもなく、彼女はただ頷いた。「すみません、霧島さん。ご迷惑をおかけしていないといいのですが、ご安心ください。先輩は噂話をするような人ではありません」この言葉を聞いて、弥生は少し冷静になった。「ありがとうございます」幸太がさらに続けた。「霧島さんの財産についてですが、専門の方に管理を依頼される必要はありませんか?」「いいえ、それは大丈夫です」弥生は首を横に振った。「あのう、明日お時間ありますか?一度お会いして詳しくお話したいのですが」「明日の昼でしたら可能です」「では、それでお願いします」翌日の昼二人はとあるレストランで待ち合わせた。以前財産リストを作成した際、幸太は証明書類で弥生の名前や顔写真を見ていたが、実際に彼女の実物を目の当たりにした瞬間、その美しさに圧倒された。弥生が目の前まで来て挨拶するまで、彼はぼんやりしていて反応が遅れたほどだ。「どうぞよろしくお願いします」「初めまして、よろしくお願いします」二人は軽く挨拶を交わした後、料理が運ばれてきた。幸太は腹が減っていたものの、目の前にいる弥生で気が引けて、食事には手をつけず、資料をめくるばかりだった。弥生が自分の意向を話し終えると、幸太は驚愕して言葉を失った。「あのう......本気ですか?すべて放棄すると?」彼の驚きに対し、弥生は平然とした表情で答えた。「はい。それらは私のものではありませんから。どのように来たものかわかりませんし、そのままお返しします」幸太は絶句した。「これだけの財産を放棄できる方にお会いするのは、初めてです」「ちゃんと法律上にも問題ないですが。この財産があれば、これからの人生で何一つ困ることはありません。それでも本当にいらないですか?」弥生は微笑んだ。「これがなくても、私は困りません」「彼にはすでに恩を返したはずです。これ以上のものを受け取るわけにはいきません」彼女の言葉に、幸太はただ黙って頷くしかなかった。「わかりました。それでは、すべて処理いたします。報酬については、後ほどお伝えします」「ありがとうございます」その後、彼女がレストランを去った後、幸太は早速先輩に連絡を
瑛介が返事をしないまま沈黙していると、綾人が再び口を開いた。「弥生は、まだ意識が戻ってないんだろ?」その言葉に、ようやく瑛介は反応し、冷たく答えた。「問題ない。あの二人は頭がいいから」彼がその場にいなくても、あの二人ならきっと対応できる。特に陽平なら、母親の面倒をしっかり見られるはずだ。「とはいえ、あの子たちはまだ若いんだ」綾人は言った。「もし何かあったら......」「僕がここで見てるから」瑛介が鋭く遮った。「......分かったよ」「ここにはもうお前は必要ない。帰っていい」綾人は、今の瑛介の態度を見て、これ以上話をしても無駄だと感じた。それでも彼は少しだけ考えた末、もうそれ以上何も言わずに、廊下のベンチに向かい、静かに腰を下ろした。瑛介は病室の外で壁にもたれ、スマホを取り出して健司に電話をかけた。通話が終わり、スマホをポケットにしまおうとした瞬間、何かを思い出して顔色が変わった。すぐさま振り返り、病室のドアを勢いよく開けた。彼が目にしたのは、二人の子供が寄り添い合いながら、弥生のスマホを手にして電話をかけようとしている姿だった。音に気づいた二人は、同時に顔を上げて瑛介の方を見た。その姿を見たひなのは、すぐに嫌そうな顔になり、唇を尖らせて彼に近づき、また追い出そうとした。でも、瑛介はすぐに大股で近づき、二人の目の前でしゃがみ込んだ。「スマホ、何に使おうとしてた?」陽平は唇をきゅっと引き結び、何も答えなかった。代わりにひなのが腰に手を当て、不満げに言った。「おじさん、ノックもしないで勝手に入ってきて!邪魔しないでよ!」瑛介は今、それに構っている余裕はなかった。彼の注意は、陽平の手にあるスマホに完全に向いていた。彼は手を差し出して言った。「スマホをおじさんに貸してくれるか?」陽平はスマホを後ろに隠しながら言った。「ママのスマホだ。おじさんのじゃない」「もちろん、それは分かってる」瑛介はにこりと笑って言った。「でもママは今寝てるだろ?一応おじさんが預かっておいた方がいい。もし落としたら壊れるかもしれないからね」ひなのがすかさず反論した。「そんなことないもん!私もお兄ちゃんも、スマホ一回も落としたことない!」「そうなんだ」瑛介はひなの
瑛介は聡のことを簡単に許すつもりはなかった。その言い方に滲み出る怒りを、綾人も敏感に察したらしく、わずかに苦笑を浮かべながら口を開いた。「今夜のことは、正直ここまでになるとは思わなかった。でももうこうなった以上......弥生の様子は?」瑛介は唇を引き結び、返事をしなかった。明らかに、綾人を無視するつもりだった。綾人もそれを察して、それ以上は何も言わず、静かに椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、瑛介が不意に言った。「お前、ここにいなくていい」「黙ってここにいるだけでもダメか?」「ダメだ」「......それはあんまりじゃないか」「僕はあんまりな人間だ」そう言われてしまっては、綾人にもどうしようもなかった。だが彼はそれでも席を立たず、ただ座っていた。しばらくして、まるで何かに触発されたかのように、瑛介が顔をこちらに向けた。鋭く暗い目で綾人を睨みつけ、低く言った。「僕に手を出させたいのか?」もしここに子どもたちがいなければ、瑛介はとっくに彼の襟元をつかんで、別の場所に連れ出していただろう。「そうか?なら試してみろよ」「僕がやらないとでも思ってるのか?」と、彼は静かな口調に鋭い響きを込めて言った。ちょうどその時、救急室のランプがふっと消え、に扉がゆっくりと開いた。さっきまで怒気に満ちていた瑛介は表情を一変させて立ち上がり、ドアの方へ向かった。一緒にいたひなのと陽平も、すぐに立ち上がって、駆けて行った。綾人もそれを見て、立ち上がり、彼らの後を追った。「先生、どうですか?」瑛介の声は、さっきまでの冷たさとは違い、少しだけ柔らかくなっていた。だが、抑えた低音が静まり返った廊下に響くと、どこかしら掠れて聞こえた。医師は数人を見渡した後、こう尋ねた。「どなたが霧島さんのご家族ですか?」「僕です」瑛介が答えた。「そうですか。患者さんは頭部に外傷を負っていますが、今のところ大きな問題はなさそうです。ただ、今後さらに検査が必要です」「......さらなる検査?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の目つきは一段と鋭さを増し、喉の奥で「聡」という名前を噛み砕くような、激しい怒りがこみ上げてきた。「今の状態は?」「現在は安定しています。ただ、頭部を傷めているため、しば
正直なところ、それで行けるのだ。なぜなら、ひなのは瑛介の言葉を聞いて手を上げてみたところ、確かに脚よりも叩きやすかったからだ。さっき瑛介が椅子に座っていたときは、彼の脚に手が届くように一生懸命つま先立ちしないといけなかった。でも今は、彼が自ら頭を下げているから、まったく力を使わなくても簡単に手が届く。ただ、目の前にいる瑛介の顔は、近くで見ると目がとても深くて黒く、表情も鋭くて、少し怖い。ひなのはその顔を見て、急に手を出すのが怖くなった。おそるおそる彼の顔を見たあと、一歩後ずさった。その小さな仕草も、瑛介にははっきり見えていた。「どうした?」ひなのは唇を尖らせて言った。「もし、おじさんが叩き返してきたらどうするの?」手も大きいし、もし本気で叩かれたりしたら、自分なんてきっと一発でペチャンコにされちゃう——そんなことを考えれば考えるほど、ひなのは怖くなってしまい、くるりと背を向けるなり一目散にお兄ちゃんのところへ駆け出していった。瑛介は完全に顔を叩かれる覚悟までしていたのに、まさか彼女が急に逃げ出すとは思ってもいなかった。ホッとした気持ちとともに、なぜか少しばかりのがっかり感がこみ上げてくる。娘に頬を叩かれるって、どんな感じなんだろう?そんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまう。いやいや、何を考えてるんだ。叩かれて喜ぶなんて、自分はマゾかとさえ思い、頭を振って気を引き締めた。雑念を払って、救急室の扉を真剣に見守ることに集中することにした。弥生は無事でさえいてくれたら、それだけで十分だった。一方、ひなのが陽平のもとへ駆け戻ると、陽平は大人のように彼女を椅子に座らせ、優しく涙を拭ってあげた。その後、彼もつい瑛介の方を一瞥した。静かに目を伏せている彼の姿は、あれほど背が高いのに、どこかひどく寂しげに見えた。陽平は唇をきゅっと結び、小声で言った。「ひなの、これからはあのおじさんに近づいちゃだめだよ」以前は、寂しい夜さんをパパにしたい!とまで言っていたひなのだったが、今はすっかり気持ちが変わったようで、力強くうなずいた。「うんうん、お兄ちゃんの言うこと聞く!」陽平は、ようやく妹がもうあの人をパパだなんて言い出さないことに安心した。これなら、ママも安心してくれるはずだ
さらに、泣きすぎて目を真っ赤にした二人の子供もいた。それを見て、警察官たちは事態を即座に理解し、真剣な表情で言った。「こちらへどうぞ、ご案内しますので」その後、警察は自ら先導して道を開け、近隣の病院へ事前連絡までしてくれた。パトカーの支援を受けたことで、ようやく車は予定より早く病院へ到着した。車が止まると同時に、瑛介は弥生を抱きかかえて一目散に病院内へ駆け込んだ。二人の小さな子供も、必死について走ってきた。その後の処置の末、弥生はようやく救急室へと運ばれた。救急室には家族であっても入れない。瑛介は二人の子供と一緒に、外で待つしかなかった。今は周囲に誰もおらず、救急室の前の廊下も静まり返っている。瑛介は陽平とひなのを自分のそばに座らせた。「しばらくかかるかもしれない。ここで待とう」陽平はとても聞き分けがよく、何も言わず、ただ静かにうなずいた。けれど、瑛介のすぐそばには座らず、少し離れた場所に腰を下ろした。彼が何を思っているのか、瑛介には分かっていた。しかし、その位置からなら様子を見ていられるし、安全も確保できるので、強くは言わなかった。一方で、ひなのは自ら彼のもとへ歩み寄ってきた。瑛介は一瞬驚いた。もしかして許してくれたのかと思ったが、彼女は彼の前に来るや否や、小さな拳で彼の太ももをポカポカと叩き始めた。「ひなのはあなたが大嫌い!」ぷくぷくした小さな手が絶え間なく彼の脚を叩きつづけた。泣きじゃくりながら怒るひなのは、まるで花がしおれたような子猫を思わせ、瑛介の胸をきゅっと締めつけた。彼は黙ったまま動かず、叩かせるがままにしていた。やがて、ひなのが疲れてきたのを見て、瑛介はそっと彼女の手を握った。「もう、疲れたろう?ね、もうやめよう」ひなのは力いっぱい手を引こうとしたが、離せずにぷくっとした声で怒った。「放してよ!おじさん大嫌いなんだから!」瑛介は彼女の顔を見て、困ったように言った。「じゃあ、おじさんと約束しよう。もう叩かないって言ってくれたら、すぐ放すよ」その言葉を聞いて、ひなのはわあっと再び泣き出し、ぽろぽろと涙を流した。「おじさんは悪い人!ママをこんな目にあわせたくせに、ひなのに叩かせないなんて!」その姿に、瑛介はまたもや言葉を失った。か
陽平はもうそうするしかなかった「うん、任せて」「よし、それじゃあ君とひなのでママを頼むね。病院に連れて行くから」「うん」瑛介は陽平の返事を聞いてから、視線を弥生の顔へと戻した。その額の血は、彼女の白い肌に際立ち、ぞっとするほど鮮やかだった。瑛介は慎重に彼女をシートに寝かせ、座席の位置を調整した。そして、二人の子どもを左右に座らせ、走行中に彼女がずれ落ちないよう、しっかり支えるよう指示した。すべての準備が整った後、瑛介は車から降りた。ドアが閉まった音と同時に、陽平は目尻の涙を拭い、弥生の頭を優しく支えながら、小さく囁いた。「ママ、大丈夫だから。絶対に助かるよ」ひなのも泣き疲れていた。先ほどまでキラキラしていた瞳は、今や涙でいっぱいになり、大粒の涙がポロポロと弥生の足元にこぼれ落ちていった。「ひなの、もう泣かないで」隣から陽平の声が聞こえた。その声に、ひなのは涙に濡れた目を上げた。「でも......ママは死んじゃうの......?」その言葉に、陽平は強く反応した。彼は驚いて妹の顔を見つめ、目つきが変わった。「そんなこと言っちゃダメだ!」ひなのはビクッと震えて、しゃくりあげた。「でも......」「ママはちょっとおでこをケガしただけ!絶対に死なないから!」車は大通りに入った。瑛介の運転はスピードこそ速かったが、ハンドルさばきは安定していた。バックミラー越しに見える二人の子どもが、必死に弥生を守っているのが分かり、その声が耳に届くたび、彼の胸が裂けるように痛んだ。彼は眉をひそめ、重い口調で言った。「陽平、ひなの......絶対に君たちのママを助ける。信じてくれ」その最後の「信じてくれ」は、絞り出すような声だった。陽平は黙ったまま、弥生の血の滲んだ額を見下ろし、顔をしかめていた。その時、ひなのがぽつりと不満げに言った。「ひなのはおじさんのことが嫌い」その言葉に、瑛介のハンドルを握る手が一瞬止まった。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながら言った。「嫌われてもいい。まずは病院に行こう」ママがこんな状態なのに、娘に好かれる資格なんてあるはずがない。すぐそばにいたのに、大切な人を守ることができなかった。娘まで危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感は、今まで
奈々は自分の下唇を噛みしめ、何か言いたげに口を開いた。「でも......ここまで騒ぎになったんだし、私にも責任があると思うの。私も一緒に行って、弥生の様子を見てきた方が......」「確かに、今回の件は僕たちにも責任がある」綾人はそう言って彼女の言葉を遮った。「でも今の瑛介は、おそらく怒りで冷静じゃない。だから、君はついてこない方がいい」そう言い終えると、綾人は奈々をじっと見つめた。その視線は、まるで彼女の中身まで見抜いたかのような鋭さだった。一瞬で、奈々は何も言えなくなった。「......そう、分かったわ。でも、後で何かあったら必ず私に連絡してね。五年間会っていなかったとはいえ、私はやっぱり弥生のことが心配なの」綾人は軽くうなずき、それ以上何も言わずに携帯を手にしてその場を離れた。彼が完全に視界から消えたのを確認した後、奈々は素早くその場で向きを変え、聡のもとへと駆け寄って、彼を助け起こした。「さあ、早く立って」奈々が突然駆け寄ってきたことに、聡は驚きつつも喜びを隠せなかった。「奈々、ごめんない......」「立ち上がって話しましょう」奈々の支えを受けて、聡はようやくゆっくりと立ち上がることができた。彼が完全に立ち上がったのを確認してから、奈々は彼の様子を気遣うように尋ねた。「体は大丈夫?」聡は首を振ったが、何も言わず、ただ呆然と彼女を見つめていた。「そんなふうに見つめないでよ。さっき私が言ったことは、全部君のためだったのよ」「俺のため?」「そうよ。よく考えてみて。今夜君があんな場で暴力を振るったら、周りの人たちは君をどう見ると思う?そんな中で私が君の味方についたら、どうなると思う?君の人柄が疑われて、私まで巻き添えになるかもしれないでしょ?だから私は、あえて君を叱るフリをしたの。がっかりしたフリをして、君が反省したように見せれば、誰も君を責めないわ」「反省したフリ?」その言葉に、聡は少し混乱した。彼は本当に反省していた。あの暴力的な行動を自分自身で恥じ、変わろうと思っていた。でも今の奈々の言葉は、それとは違う意図に聞こえる。......とはいえ、奈々は美しく、優しい。彼女がそんな策略を考えるような人だなんて、彼には到底信じられなかった。最後に、聡は素直
彼は弥生の額から血が流れていたのを見たような気がする。しかも、自分は子供を蹴ろうとした?自分はいったい、どうしてしまったのか?そんな思考が渦巻く中、綾人が彼の前に立ち、冷たい目で見下ろした。「聡、正気だったのか?何をしたか分かってるのか?」「俺は......」聡は否定しようとしたが、脳裏には弥生の額から血が滲むあの光景が蘇り、一言も出てこなかった。ようやく、自分の行動がどれだけ非常識だったかに気づいた。しかし......彼は奈々の方へ目を向けた。せめて彼女だけでも、自分の味方でいてくれないかと願っていた。そもそも、彼がこんなことをしたのはすべて奈々のためだったのだから。奈々の心臓はドクンドクンと高鳴り、心の奥では弥生に何かあればいいのにとすら思っていた。だが、綾人の言葉を聞いた後、その邪な思いを慌てて胸の奥にしまい込み、失望した表情で聡を見つめた。「手を出すなんて、君はやりすぎたわ」ここで奈々は一旦言葉を止め、また口を開いた。「それに、相手は子供よ。ほんの少しの思いやりもないの?」聡は頭が真っ白になり、しばらく口を開けたまま固まった。ようやく声を出せたのは数秒後だった。「だって......全部君のためだったんだ!」もし奈々のためじゃなかったら、自分がこんなにも取り乱すはずがない。弥生とその子供たちに、彼には何の恨みもなかった。彼が彼女たちを攻撃する理由なんて、どこにもなかったのだ。その言葉を聞いた奈々の表情は、さらに失望に満ちたものとなった。「感情に流されてやったことなら、まだしも少しは理解できたかもしれない。でも、『私のため』ですって?そんなこと、人前で言わないでよ!まるで私が子どもを傷つけさせたみたいじゃないの!」「今日まで、私はあの子供たちの存在すら知らなかった。弥生がここに来るなんて、私には想像もできなかったのよ」奈々がこれを言ったのには、明確な意図があった。綾人は瑛介の最も信頼する友人であり、もし聡の言葉が綾人に悪印象を与えたら、今後彼に協力を求めることが難しくなる。だから奈々は、普段どれだけ聡に助けられていても、今この場面では彼を切り捨てるしかなかった。どうせ聡は、彼女にとってはいつも都合のいい人でしかない。あとで少し優しくすれば、また戻ってくる。
そこで、まさかのことが起きた。弥生のそばを通り過ぎるとき、突然聡が何を思ったのか、彼女の腕を乱暴に掴んできたのだった。「ちょっと待って。本当に関係ないなら、子供を二人も連れてここに来るなんて、おかしいだろう!」弥生がもっとも嫌うのは、事実無根の中傷だった。そして今の聡の言葉は、まさに彼女に対する侮辱だった。弥生の目つきが一瞬で冷たくなり、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「ねえ聡、瑛介と奈々っていつもカップルに見えるの?」ちょうど近づいてこようとしていた瑛介は、この言葉を耳にして足を止め、弥生の後頭部を鋭く見つめた。この問いかけは、一体どういう意味だ?「もちろんだ!」聡は歯を食いしばりながら怒鳴った。「奈々の方があんたなんかより何倍もいい女だ!瑛介にふさわしいのは、彼女しかいないんだよ!」「じゃあつまり、二人はカップルに見えるのに、あなたは奈々を今でも想ってるってことね?」聡は一瞬言葉に詰まり、予想外の展開に呆然とした。弥生はそんな彼を見つめ、嘲笑を浮かべながら口元を引き上げた。「あなたに私を非難する資格あると思うの?」その言葉の鋭さに、聡は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くしてしまった。ようやく我に返った時には、弥生はもう彼の手を振り払って前へ進んでいた。慌てた聡は奈々の方を振り向いて言った。「奈々......」だが、返ってきたのは、奈々のどこか責めるような、そして複雑な感情を秘めた視線だった。その視線に、聡のこころは一気に締めつけられた。まずい、弥生の言ったこと、奈々の心に残ってしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分を近づけてくれなくなるかもしれない。そう思った瞬間、聡の中で沸き上がったのは、弥生への怒りだった。全部、彼女のせいだ。彼女が余計なことを言わなければ、奈々のそばにいられるチャンスはまだあったのに。「待て!」聡はそう叫ぶと、弥生に再び近づき、肩を掴もうとした。その瞬間、弥生に連れられていたひなのが、眉をひそめて前に飛び出し、両手を広げて彼を止めようとした。「ママにもう触らないで!」その顔は瑛介にとてもよく似ていて、それでいて弥生の面影も強く感じられる顔だった。その顔を見た瞬間、聡は怒りが爆発し、反射的に足を振り上げた。「どけ!ガキ
母の言う通りだった。あの言葉を口にしてから、瑛介は確かに彼女に対する警戒を解いた。かつて命を救ってくれた恩がある以上、奈々は依然として特別な存在だった。そして弥生は既に遠くへ行ってしまっていた。五年もの時間があった。その機会さえ掴めば、再び瑛介の傍に戻ることは決して不可能ではなかったのだ。ただ、まさか瑛介が五年の歳月を経ても、気持ちを変えることなく、彼女に対して終始友人として接し続けるとは思いもしなかった。一度でもその線を越えようとすると、彼は容赦なく拒絶してくる。だから奈々はいつも、退いてから進むという戦術を取るしかなかった。「奈々?」聡の声が、奈々の意識を現実へと引き戻した。我に返った奈々の目の前には、肩を握って心配そうに見つめる聡の姿があった。「一体どうしたんだ?瑛介と何を話した?」その問いに奈々は唇を引き結び、聡の手を振り払って黙り込んだ。皆の前で、自分が瑛介と「友達」だと認めさせられると教えるの?そんなこと絶対に言えない。友達の立場は、自分にもう少しチャンスが残されることを願ってのことだ。ただの友達になりたいなんて、そんなの本心じゃなかった。「僕と奈々の間には、何もないから」彼女が迷っている間に、瑛介は弥生の方を向き、真剣な顔でそう言った。奈々は目を見開き、その光景に言葉を失った。唇を噛みしめすぎて、今にも血が出そうだった。あの五年間、彼は何にも興味を持たなかったはずなのに、今は弥生に対してこんなにも必死に説明しているのは想像できなかった。弥生は眉をひそめた。もし最初の言葉だけだったなら聞き流せたかもしれない。だが、今となってはもう無視できなかった。瑛介はそのまま彼女の手首を掴み、まっすぐ彼女の目を見て言った。「信じてくれ。僕は五年前に彼女にはっきりと言ったんだ」二人の子供が顔を上げて、そのやり取りを興味深そうに見つめていた。そして、ひなのがぱちぱちと瞬きをしてから、陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、おじさんとママって、前から知り合いだったの?」陽平は口をキュッと結び、ひなのの手を取ってその場から引っ張った。ママの様子を見て、子供が関わるべきではないと悟ったのだろう。弥生は自分の手を見下ろし、それから瑛介を見て、手を振り払った。「それで?私に何の関係がある